先回は悪の援軍オタキングダムに言及しましたが、今回は正義の援軍、レゴレンジャーの追加戦士をご紹介します。 レゴ特撮タイムの新番組『知育戦隊レゴレンジャー』のストーリーは、「理想を追う知育戦隊」と「価値を破壊しようとするモケ・オタ・ガチ(唯物論者勢)」と「バランスを取ろうとする追加戦士」が三つ巴のバトルを繰り広げるレゴ文化の物語。 子供向けとしては単純な二項対立図式が望ましいのですが、掲示板は大人の方が多いみたいなので、ちょっと複雑にするために第三勢力の存在を創ってみました。
想像力の知育戦隊、分析力の模型化勢力、そのどちらでもない第三極、柔軟性でバランスを取る器用なレゴラーがこの2色の追加戦士。子供も大人も両方重視する、一様化でも多様化でもない、アウフヘーベンな二面性・曖昧性(器用な日本人のメタファー)。 5体のレゴレンジャーは本質的に唯一神教徒で、正義の為に戦うが、追加戦士は神道の世界観で自然との調和を目指す(悪を滅ぼさない)。 現在はモケ・オタ・ガチの即物勢が強く成り過ぎた為、ゆとりグリーンと悟りホワイトは抽象的な知育戦隊に加勢し、人々が想像力を取り戻すように促しているが、ひとたびレゴレンジャーが勝利を収め、モケーを完全に滅ぼそうとすれば、ゆとり&悟りは急に闇堕ちしてツイッターに宗旨替えし、追加モケー戦士となって大人のために知育戦隊に襲いかかるだろう。その時はバイクヘルメットからカスタムヘッドに顔が変わる。 悟りホワイトの元ネタ「ダイレンジャー」では、東洋哲学的に善悪は表裏一体の虚しいものと説いていましたが、本作は日本的な和の精神で、善でも悪でもない、ニュートラルな志向、弱い方に味方する優しさといったものをミニフィグのキャラに仮託しました。
みなさん、今日から始まった「仮面ライダービルド」は私のパクリです!観ないでください! この事を言うためにワザワザ追加戦士の部分だけトリミングして本投稿を作りました。
さすがにそれはひきます。 どうしてそんな「パクリです観ないでください」みたいなくだらない冗談を言うためにわざわざトリミングまでして投稿するんですか? ほんとに信じられないです。 ありえません。 謝ってください。
すみません。不愉快でしたか? 「楽屋ネタ」で検索したら“キャラクターそのものや元の作品の世界観を大事にしたい閲覧者からは敬遠される傾向にある”と説明されていました。これではレゴレンジャーを面白がってくれていた人々からも敬遠されますね…。 作者・投稿者が出てきて発言すると不愉快。この事は始めて認識しました。すみませんでした。ですが逆に言えば、作中キャラによるギャグならばかなりの部分まで許されそうなので、みなさんに協力していただきたいのですが、マスタービルダー・三井淳平氏のシグフィグは、何というキャラで、どのセットに入っていますか? 悪のSNSツイッターの首領として登場させたいのです。
協力はできんね。 あんたが思う悪の三井氏のシグフィグを作ればいいんだよ。どのセットにも入っとらんよ。あんたの頭の中にしかないのに、なぜ人に聞く?もはや意味不明である。言ってること全体的に意味不明だが、更に意味が分からない。 協力するつもりもないが、協力できないんだよ。
これはあくまで寓話なので、悪意や悪フザケとは違います。 爆笑問題の太田光が「笑いは絶対に人を傷つける」「誰も傷つけない表現は 何も表現していないのと同じ」と言っていました。そして「『傷ついているんだから、やめましょう』というのは生きづらい」とも語っていました。 前から違和感に感じていたのは、モケ・オタ・ガチ勢の反論が「自由」「多様性」と、まるで少数派を擁護するときのような理論ばっかりだったこと。多数派、強者の立場ならもっと積極的に模型化の正当性を主張して反駁すべきなのに、これでは金持ちが税金マケてくれと言っているようなものです。マスタービルダーが一般のファンから批判されるのは健全な事じゃありませんか?もちろん愛情ある批判ですよ。
寓話でも何でもいいんだけどさ、オタでもガチでも、強者でも弱者でも何でもいいんだけどさ、「考えて作る(造る、創る)」ことを停止している今のあんたのレゴは死んでいる。 ここは死んでいる奴が投稿する場所じゃない。それに、死んでいる奴が何主張したって、まるで説得力がないんだよ。
すみません。「一作って十語る」人間なので、学者が年1回しか論文出さないようなもので、理論的に何が正しいか分かればそれでいい、実際に手を動かして論文書くのは面倒だみたいな話なんです。ヘビーユーザーのガチ勢については、レゴ買い過ぎて嫁さんに逃げられた人までいるって聞きました。どちらが健全なんでしょうね?
もういいとおもいます。
うるせーよ。うるせーだけなんだよ。 お前は、もう死んでんだよ。 気づけよ。 言いたいなら生き返れよ。
作ること自体が目的で作品に執着は無いとか、質より量を重視するとかいう少年文化に解釈された現代レゴは、知育玩具ではなく工作材料です。同じ「レゴレンジャー」でもMoko氏のは「凹凸戦隊」と言い、明らかにパーツとして見てる。サポートBBSでも言われた「パーツ還元主義」です。レゴは材料に過ぎないから、何に使ってもOKという解釈。 職人気質の唯物勢はレゴといば「簡便なパーツ」というイメージなのでしょうが、子どもや一般人は個別なレゴパーツはよく知りません。その代わりレゴというイメージがあるわけです。男女兼用のシンプルモダンなヨーロッパ玩具ね。模型化やオタク化、少年文化化は、そのイメージを壊してるわけです。どっちがカッコいい文化かは比べるべくもない。 量より質へ。仕事から遊びへ。これが正しいレゴ道です(真面目な芸道みたいな言い方が嫌いですが)。 本来、文化・芸術は精神的なものであるべきです。 唯物論者を滅ぼす「文化のヒーロー」、それがレゴ特撮タイムなのです。 みんな、仮面ビルダーやレゴレンジャーといっしょに戦おう!!
やだよ。口だけの奴と一緒に戦いたくなんてねーよ。 口ばっかりで手を動かさない奴なんて、子供が一緒に遊んでくれると思ってんのか? レゴを遊ぶ者としては終わっている。つまり、死んでいる。 ゾンビの方が動く分まだましだぞ。
いちいち死んでる奴に絡むな。時間の無駄だ。
この咬み合ってないやり取りは、毎度のことですが、こちらは議論のルールを守って三人称で話してるのに、モケ側は「お前は~」 と二人称で個人攻撃(しかもレゴビルドと関係ない量的な話)ばかりで、ちっともレゴ談義になっていかないんですよね。 モケ勢は量を問題にしたいなら、「正統派は作品制作の頻度が少ないじゃん!」とかいう三人称な批判を展開すべきですよね。 掲示板の住人が「井の中の蛙だ!」という批判も、彼らは私個人に意味を限定するとまで言ってましたからね。 モケ勢はビルダーとしてだけでなく、掲示板利用者としてもスポイル・スポート(遊び破り)で、フェア・プレーな議論をした事が一度も無い。そんなんで遊びや文化ができるのか? こう言うとまた「量ガァー」「金ガァー」「お前個人が気に入らねぇ!」とビルドとは関係ないこと&二人称で責めてくるんでしょう。 秀吉の黄金の茶室と、利休の簡素な茶室とでは、どちらが高度な茶室ですか? 精神的である、文化的であるとは、そういうことなんです。 なぜレゴだけが、即物的に解釈されるのか? 若い世代や子どもに期待します。女性陣にも。レゴ文化から少年臭さを無くしましょう!
自分が正統派を主張したいのなら、作品載せろって言ってんの。 他の奴の事は知らん。知らん奴の事も含めて勝手な想像で物は言えん。そんな無責任な発言を俺はしない。だから俺はあんたに言う。 自分の事を正統派とカテゴライズされたいのなら、作品作って公表して仲間を集めて紹介してくれ。既に仲間が居るのなら、教えてくれ。そしたら三人称で呼んであげるから。 できないのなら、あんた個人を攻撃する他ないし、作品作って仲間集めをしないのなら、死んでいるのと同じだな。
相変わらず咬み合ってないなと思うのは、個別な新作や何処かのグループに限定して「正統派」と呼ぶわけじゃないのに、 それが理解されず、「新作出してない期間は正統派じゃない」とか「特定のお仲間を紹介してくれなきゃ正統派じゃない」とか 的外れな反論が返ってきて困惑させられること。いつも。 レゴ文化って、徒党を組む少年文化や派閥政治とは逆の、抽象的でモラルある子供のオモチャと解釈されるべきもの、精神的な 文化ですよね? 新作云々は、各人がそれぞれ好きな時期に好きな場所に投稿すればいいのでしょうけど、そこには議論の余地も問題も何もないから、我々が問題にしなければならないのは、作品や製品の「質」、といっても個別な作品や特定の製品や誰か個人じゃなくて、それらに共通する「文化」が正しいかどうかを検証すること。もし間違っていたら正すこと。ですよね。そういうモラルや常識を取り戻すべきです。 少年ジャンプみたいな文化に高い精神性があるといえるか? モケー論を語れないなら、せめて少年論を語っていただけないで しょうか? “組織化や訓練が絶え間なく強化されてゆくと、純粋な遊びの内容が失われてゆく”ホイジンガ
何か勘違いしてるようだ。 作風や出来ばえを批判しているのではないのだよ。 俺はあんたが「投稿する」というこの場所の最低限のマナーも守らず自己主張する姿を批判しているんだよ。 もう一度言う。作風や出来ばえを批判しているのではない。モケーが素晴らしいとも言っていない。 作ることをやめ、言っているだけならそのホイジンガ氏と同じだな。遊ぶ側の人間ではない。 ここは遊ぶ側の人間の来るところなんだよ。モノで示さない論者が来るところではない。遊ぶのを辞めた(死んだ)人間の来るところではない。 そもそも、ここまで多様性になってしまったレゴを正したいなんて勇んでるのなら作品で「レゴ社」に示してくれよ。バトルの報告してくれるなら、俺は聞いてやるぜ?でもここでは困るな。
レゴ社と直接バトルできたらいいですね。映画でも音楽でも商業化によって堕落し、落胆したファンは「○○は死んだ」と嘆きました。文化的死ですね。そういうファンがレゴ界には私しかいなかったわけですが、一般人の中にはマスタービルダーの作品を見て「金をかければ誰でも出来るよな」と批判する人がいます。真っ当な人ですね。 掲示板のマナーについての話ですが、作品や作風について論評・論争しない(精神のレベルに引き上げない)風潮があまりに強すぎ、レゴが物体以上には扱われなくなり、結果として大きくて複雑という物理的優位性でしか観られない「巨大な見世物」となった。そういう「マナー」がモラルより優先されるべきものなのかどうか? 「傷つくからやめましょう」は 生きづらいという太田光の言葉を思い出してください。 作品を見せるだけで、語っちゃいけないというのは、つまらない話ですね。精神的じゃない。文化でなくなってる。 遊びのモラルを聞いても何も感じないって、どういうことですか? 想像力が無いんですか?
(続き) > 作ることをやめ、言っているだけならそのホイジンガ氏と同じだな。遊ぶ側の人間ではない。 ホイジンガはホモ・サピエンスやホモ・ファーベル(作る人)対して、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)という人類の名称を提唱しました。 知恵や工作では不十分と考えたんですね。文化史家だから。レゴは文化ですよね? レゴの語源は「よく遊べ」。 単なる工作という解釈は 不適切です。遊び、想像力による形象化は「工作」ではありません。 “手仕事に属するものと見なされる造形芸術には、ミューズの女神は割り当てられないのだ”ホイジンガ 「よく作れ」がレゴの意味なら、明らかに模型より劣ります。「よく遊べ」です。真面目な物作りじゃありません。 遊びとして高度なものが良いレゴなのであって、三井淳平氏のは駄作です。黄金の茶室みたいな、悪趣味なものです。
あんた、子供と遊んだこと無いだろ。 だからそういうお気楽な事言ってられんだよ。 もう一度言う。そんなんじゃ子供は一緒に遊んでくれねぇぞ。 語ってもいいんだよ。俺は語っちゃいけないなんて一言も言っていない。 語ってもいいんだよ。だけど、それだけじゃだめだ。 やりもしねぇで喋るばっかりじゃ、そっぽ向かれるぞ? ああ、こりゃ立派な遊びだなぁ。そりゃ何て遊びだ?あっち向いてホイか? あんた、子供と遊んだことないだろ。
大人が子供といっしょにレゴ遊びするのは良くないと思います。
スタオズはたぶん脳になんらかの欠陥あるね。
No.9887を不思議がる人が多いみたいですが、そこまで大人論をぶつわけにはいかないので、 ここはレゴ論やモケー論に限定しましょう。 No.9886氏が「そんなんじゃ子供は一緒に遊んでくれねぇぞ」と言ってますが、いくら子供と遊べても間違ったレゴをやってるんじゃ 意味ないですよね。 ヒーローは子供のために戦いますが、子供と行動を共にする事はありません。安全な場所に避難させます。 「大人のレゴ」って、実に矛盾した言葉じゃありませんか。
「大人のレゴ」がどう矛盾しているか、教えてくれないかな。 大人のレゴが何たるか分かっていない俺にとってはサッパリ何なのか分らんので。説明を求めます。
もういいともいます!
だめだこりゃ。 スタオズさん、3アウトゲームセットです。
まだやってたとは気づきませんでした。大人の矛盾については従前批判してきた通りですね。 最近、ツイッターのオタ勢が、けものフレンズの商業化による堕落にショックを受けてるのを見ました。いい気味ですねw 「悪い大人」によって文化を台ナシにされる気持ちが分かりましたか? もっと苦しんでください。ハッハッハw 角川頑張れ! 敵の敵は味方だ! いっしょにオタク文化をブチ壊そう!!
ほら、まともに答えてくれないんだもん。初心者置いてきぼりですよ。若い子は付いてけませんよ。不親切だもん。 第4アウトですね。
http://mijin-co.me/artist_fake_expel/
> No.9910 レゴ特撮タイムのヒーロー達はアーティスト志向を批判している立場なので、アーティスト論、芸術家はこうあるべきだという事は考えていなかったのですが、多作な自称アーティストはそんなことを考えてるのかと興味深く読みました。 通して読むと、誰にでも当てはまるようなことが多いですね。例えば、たまにしか作品を作らない人というくだりは私に近い(私は反アーティストだが)し、あるいは「インスタグラムには、自撮り、カフェ写真、料理がメイン。ごくたまに枝が並んだみたいなものが写ってました」はTeam BTTFのさくれつ氏がちょうどそのようになっています(氏は確かにレゴ・アーティストを名乗っています)。 ちょっとさくれつ氏を批判しておくと、多くの偉人や芸術家が「結果より過程が大事」とか「チャレンジする事に意義がある」と説いているのに、氏はまったく逆のことを言っていましたね。作風も途中から変節したり、カスタムフィグ作りもやめて、道具を売り払っちゃったりと、ちょっと氏は「悪い自称アーティスト」の典型ではないかと思います(個人批判ではなくスポイル・スポート批判)。
さくれつ氏の発言 “アマの世界は過程がすべて。プロの世界は結果がすべて。「頑張ること」それ自体に価値があるのはアマの世界、価値がないのがプロの世界。プロになるためには、「ちゃんと努力したもん」は封印しなければならない。人の苦労話なんて、他の人はどうでもいいのよね” “結果に報酬がなければ、やる気もなくなります。才能を開花する機会は与えられたチャンスをものに出来るかどうか。私はプロもアマも責任は同じだと思いますよ” “努力は確かに価値はあるが、それは頑張ったその人だけの価値でしかならない。他の人にとっても価値のあるモノを生み出した時に初めてプロとしてと胸を張れる” ホイジンガの引用に比べれば、かなり低レベルな発言だと思いませんか? レゴはこういうものにされてるんですよ。大人の商材や工材に(士農工商は身分制度じゃなく、精神性の高い順番だって知ってましたか?)
レゴ特撮タイムに、職人(工)だけでなく、新たな敵、プロ(商)が現われた! 以下はホモ・ルーデンスの『スポーツは遊びの領域から去ってゆく』より引用。 “遊びがもはや遊びではなくなっている人々、能力では高いものを持ちながらその地位では真に遊ぶ人間の下に位置させられる人々(プロ遊戯者)が区別されてしまうのだ。これら職業遊戯者のあり方には、もはや真の遊びの精神はない。そこには自然なもの、気楽な感じが欠けている。~中略~ それはもはや遊びではないし、真面目でもないのだ” “ところでこの見解は、スポーツを現代文化における最高の遊びの要素であると認める世間一般の輿論とはまさに真っ向から対立する。しかし断じてスポーツはそういうものではない。むしろ反対に、それは遊びの内容のなかの最高の部分、最善の部分を失っているのである” “遊びはあまりにも真面目になりすぎた。遊びの雰囲気は、多かれ少なかれ、そこから逃れ去ってしまったのだ。この真面目への傾斜ということは、非体育的な遊びにも当てはまるのだが、ことにチェスとかトランプのように、知能的計算がそのすべてである遊びがそうであることは、注目に値する”